ヨンキュープラスを制作しているエージェントプラスには、書道家がいる。ワンピースで麦わらのルフィが音楽家を欲しがったように、何故か、書道家が欲しかった。今もこうして、書道家を雇っている。これからも様々な要素が絡み合うクリエイティブ集団でいたいと願う。
それでは、その書道家から届いた便りをご紹介します。2回目です。今回のテーマは、書は読むものなのか??壮大なテーマです。墨人こと堀尾茂雅です。それではどうぞ!
読めるものか?読めないものか?
作品が「読める・読めない」に関して 一言で言ってしまえば、作品を「読んでほしい」のではなく「眺めてほしい」ということです。
書は基本的に文字を素材にすることになりますから、極力文字として「読める」ように書くわけですが、文字の書体について、書く側と同等の教養を観賞者側に求めることは難しいです。
楷行草篆隷に仮名・変体仮名・カタカナ、アルファベット、縦書き・横書きと多様な選択肢から選択し、ミックスし、作品にしていくわけですから一般の観賞者は読めなくて当然だと思っています。
特に僕が作品を書くとき、文字を重ねたり並べたりもしますから、尚更読みづらくなります。
それに「読めること・文章の内容」を第一に伝えたいのならば、フォントで打ち出せば済むわけです。
では何を見て欲しいのだろうか?
線の美しさ。
余白(白と黒のコントラスト)の美しさ。
そして、一枚の作品のなかに存在する「時間」を共有してほしいということ。
僕は作品と合わせて原文を添付しますので、照らし合わせて書きぶりを感じていただければ、単に活字で歌を読むのとはまた違った歌の感じ方をしていただけるかとも考えています。
いかがでしょうか?
追記 「読める」「読めない」に関連して
「わかる」「わからない」について
「わかる」「わからない」って重要なことなのか。
「わかりたい」「理解したい」と考えるのは重要なことだろうと思います。
どんな分野でも言えることではないかと僕は思うのですが、目の前にあるものを「感じる」ことの方が重要だと思うのです。
「読める」「読めない」あるいは「わかる」「わからない」という視点ではなく「感じる」という意識の働きが重要なのではないかと考えます。
僕自身、書も音楽も何かよくわからないけど、「凄く魅力的」「これは凄い」って感じたから長い時間関わって来たわけです。
「目撃道存」 目撃して道存す。
良い作品は一見して書とはどうあるべきかという道がはっきりとわかる。と言う意味です。