服も着られなくてかわいそうねぇとおっしゃる。このような後進国の子どもたちが少しでも幸せになるように、寄付をしましょうと迫られる。この写真の子どもは、ホントにかわいそうなのか?きっと余計なお世話である。かわいそうな子どもを広告等に寄付を募るというやり方が、どうも昔から許せないのである。道端で、子どもたちに大きな声を出させて募金をする方々が、どうもダメなのである。
我々は物事をそのままではなく自分を通してみる。
「服も着られなくてかわいそうねぇ」の裏側は、きっと「こういう風なのは嫌でしょ」である。その生活環境も、その子どものホントの意志とは関係なく・・・。我々は、エゴを通してしか物事がみられないのである。
戦火に散る子どもたちは、ひとりでも少ないほうがいい。大人の理屈で犠牲になる幼いいのちは守るべきである。それに異議はない。
しかし、どう見てもお気楽な日本の私たちの、「かわいそうでしょ」だから「寄付をしましょう」という活動の向こうに、理想の未来はない。
寄付される側が、寄付する側を目指して経済成長を願う。寄付する側は、いつまでも寄付する側でいたいと経済成長を維持しようとする。結局、資本主義のエゴの中で、この子どもの背中は、勝手に解釈され続けるだけである。
このエゴのクサリは、どう身をよじってもほどけそうにない。だからこそ、いけしゃーしゃーとこの子どもの背中を「服も着られなくてかわいそうねぇ」などと簡単に言わないでいただきたい。エゴのクサリの中で、自分もまた生かされているという誤謬の中にあることを心していただきたい。
どう見るかは、どう生きているかである。