「関わりたいだけ」の人が急増している街。
福岡は、とにかくイベントの多い街である。どこにいっても何かをやっている。イベントをハシゴできる。賑わいがあって素晴らしい。誇らしい。
でも、一方で、こんなエピソードも耳に入ってきた。
福岡でイベントやります!って告知した東京の人が言うには、
「うわ、絶対に行きたい!」
「美味しいもの食べに行きますしょ!」
「日程確認します!行きたい!」
「お会いしたいです!」
「時間作ってみます!」
と150件くらいコメント来たのに、参加するかどうか訊くとなんか歯切れ悪くむにゃむにゃ。。。
で、結局参加者2名だったと(笑)
「なんなの?福岡の人ってみんなこうなの?」と怒ってましたね。
実は、こういうことが多いのもFUKUOKAなのである。例えば、旧博多部で10月に行っている「博多灯明ウォッチング」。もともとは、地域の衰退を危惧した地域住民が共同作業を通じて「絆」を深めるために自主的に始めたものだったが・・・行政をはじめ観光ビジネスに絡めたい方々が「観光イベント」のように仕立ててPRし、さらに「ライトアップウォーク」も。いまやテーマなど振り返ることなく「継続せざるを得ない」まま規模が拡大している。
博多どんたく港まつりも同様。戦後復興祭として再開した当初の意義を理解する人は少なく、乗っかる大勢の人々のために巨大な規模で、もはや何のためのお祭りなのかがわからなくなっている。
いっちょかみには、限界がある。
人は常に欠乏を充足させる方向に動く。欠乏充足の可能性が高いと多くの人が感じるものが潜在的社会潮流で、これが断片的に顕在化するのがブームや流行と呼ばれるものである。
木から落ちたサル。群れを見失ったサルは、本源的な不安が強く起こってくる。インターネットは、この共認欠乏を急速に埋めるが、充足には至らない。ネットの次は、リアルにそれを求める。そのスピード感をリアルの中に求めるため「いっちょかみ」する。もどかしいプロセスを経ず、できるだけ早く、一気に共認充足を得られるポイントに参加し、乗るだけ乗る。
こうして福岡は「いっちょかみ都市」として発展しているのである。根底にあるものはむしろ肥大した自我がもたらす安直な共認充足である。打算と言っていいかもしれない。
残念ながらこの「いっちょかみ」には限界がある。道のそばに座っていつもそわそわと、なにかおこらないかなと見ている。いわゆる熱し易く冷め易い野次馬根性では、LOVEは育っても、PRIDEへとは昇華しない。
福岡LOVEな自分LOVE。
「福岡が好き」という意識は素晴らしいことである。来福する方々に、片っぱしから街を自慢しちゃうのも結構なことである。でもしかし、今のままでは、リア充な自撮り都市のままで終わってしまはないかと危惧している。
企画した人間のプライドだけが充足するイベントが増えている。価格に見合わない内容への苦情、運営オペレーションの不備等々、いろんな声が、ワタシの耳に入ってくる。その多くが、福岡LOVEな自分の、自分LOVEイベントなのである。
「小さいな経済圏」へのまなざしを・・・。
福岡の都市としての魅力は、間違いなく成長スピードである。そのスピードは、多くの欠乏を満たしている。だから「いっちょかみ」も急増する。致し方ない。
しかしもう一方で必要なのは、ゆっくりでも満たされている「小さな経済圏」へのまなざしである。お金がすべて。集客数こそプライド。そういう資本主義をアップデートするような幸せを模索する「なめらかな思考」である。
ヨンキュープラス世代ができることは、生き様でそんなことを証明することではないかと考えている。
脱・いっちょかみである。
編集長中村修治の都市考察 アマゾネス都市 FUKUOKA論