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88歳。有田焼人間国宝の物語~その5~公務員の安定を捨て独立

コラム 伝えたいこと

人間国宝も独立した時は不安だった

有田焼の重要無形文化財(人間国宝)の井上萬二さんは、柿右衛門窯で修行した後、公務員になる。佐賀県窯業試験場の技官として、窯業全体の研究生活に入った。

公務員は安定した職業だ。ただ、安定に浸るわけでもなく、萬二さんは42歳の時に独立して、自らの「井上萬二窯」を開く。40代に入ってからの起業に不安はなかったのか?

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井上萬二さん

一介の職人で終わりたくない。そう思って、私は終戦後に13年間勤めた柿右衛門窯を去りました。窯業(ようぎょう)全体のことを学ぼうと、29歳の時に佐賀県窯業試験場の技官になったんです。試験場では、ひたすらに窯業一般の勉強を13年間しました。

試験場にいる時、単身渡米し、現地の大学で有田焼の講師を務めたことが、私の後の作品づくりにも大きな影響を与えてくれました。1969年、30代後半のことです。ペンシルバニア州立大学から月給2000ドルでどうか、と誘われまして。当時、1ドル360円だから72万円ですよ。その時、私は県の職員だったから月給10万円。7倍ですね。佐賀県知事の倍以上の給与で誘われたもんですから、いいなと思いまして(笑)。

大学側からは、単身来てくれと言われましてね。当時は、海外ツアーに行く人も少ないし、1人でアメリカに行くことが珍しい時代。しかも、通訳がいないから英語を話せるようにしてきてくれ、とも言われて。

戦前はアメリカと戦っていましたから、英語がタブーの時代。その中でも、海軍のパイロットは、英語を教えられていました。訓練生だった私も、英語の基礎はあった。だから、渡米まで3ヶ月間の余裕があったので、1日に3〜5ずつの単語を覚えようと、英語の勉強をしました。

アメリカは若い国だから、伝統が浅い。だからこそ、伝統に縛られず、学生たちの創作の発想は自由でした。各自が違う美意識を持っている。彼ら、彼女らの新しさを求める姿勢を約5ヶ月の滞在中に学びましたね。

われわれ日本人は、伝統という言葉が常に頭の中にあります。学生たち「洋」の「NEW」の美意識に、われわれ「和」の「OLD」の美意識を融合させ、私自身に新しい美意識が芽生えた。いい時期に、いいチャンスを得れたと思っています。帰国してからは新しい美意識で、自らの道を切り開こうと思いました。だから県を退職して、窯を開いたんです。もちろん、いずれは、独立を考えていました。

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公務員はいいです。昇給はするし、ボーナスはあるし、定年までいけば、退職金も出る。大いに望みのある社会です。だけど、東京のある方から、「公務員の時にしっかり勉強しなさい。そして早く退職しなさい。定年までいてはいけない。早く自分の道を開きなさい」という助言も受けていたんで、県職員を辞めたんです。42歳の時です。

独立した時は、不安でしたよ。公務員時代は給与もいただき、生活も安定していましたから。独立したら、安定した収入はない。そもそも作品は誰が買ってくれるのか、不安が頭をよぎりました。

私は13年間修行し、13年間県職員として研究。トータル26年間、長い道のりを経て独立しました。だから作品作りに関しては不安はありませんでした。ただ、作品の販売、つまり収入面に関しては不安ばかりでした。

ただ、初めこそ不安はあったけれど、すぐに消えました。初めて作品を売り出したら、有田の商社も、全国各地の方も、どんどん買ってくれたんです。

そんな時に思いました。普段から努力をしていれば、不安は取り除けるものなんだ。自分の道を切り開くためには、完璧に近い努力をしなければ、ならないんだ、と。

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