「ヨンキュープラス」49歳以上のおじさんおばさんに正直なメディアをつくってみました。ご賞味ください。

森友学園問題に、こっそり触れてみる。

コラム 伝えたいこと

アイデンティティーは、ひとつでなくてはいけないのか。 ハローワークで、大人の正論を吐くのが首相の役割なのか。 良い大人って、どういうことだろうか。考えてみた。

作家・重松清さんの『流星ワゴン』(講談社文庫)のあとがきが素敵である。ここで、大人の皆さんと共有したい。
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【「父親」になっていたから書けたんだろうな、と思う自作はいくつかある。『流星ワゴン』もその一つ――というより、これは、「父親」になっていなければ書けなかった。そして、「父親」でありながら、「息子」でもある、そんな時期にこそ書いておきたかった。ぼくは28歳で「父親」になった。5年後、二人目の子どもが生まれた。二人とも女の子である。

その頃から思い出話をすることが急に増えた。忘れかけていた少年時代の出来事が次々によみがえってきた。身も蓋もない言い方をしてしまえば、それがオヤジ になってしまったということなのかもしれないが、ちょっとだけキザに言わせてもらえれば、「父親」になってから時間が重層的に流れはじめたのだ。

5歳の次女を見ていると、長女が5歳だった頃を思いだし、その頃の自分のことも思いだす。さらにぼく自身の5歳の頃の記憶がよみがえり、当時のぼくの父親の姿も浮かんでくる。

「子を持って知る親の恩」なんてカッコいいもんじゃない。愛憎の「憎」の部分が際立ってしまうことのほうが多かったりもする。記憶から捨て去ったつもりでいた過去の自分に再会して、赤面したり、頭を抱え込んでしまったりすることだって、ある。

でも、親になったおかげで、子どもの頃の自分との距離がうんと近くなった。その頃の父親の姿がくっきりとしてきて、当時はわからなかった父親の思いが少しずつ伝わってくるようにもなった。そのことを、ぼくは幸せだと思っている。】

 

子供を持つことによって、親は、自分が子供であったときのことを思い出す。

自分自身の再確認を、子育てを通じて繰り返すことによって、良い親になっていく。良い大人になっていく。子供の時の恥ずかしかったことや、悲しかったことや、親との確執を思い出しながら、子供達との距離を保つこと。それが、親の役割であり、子供の役割であり、幸せなのだ。大人である「親」の役割を全うすることが、良い大人ではないと言うわけだ。

 

これは、「親」を「上司」に書き換えて考えてみても同じではないだろうか。上司=リーダーになったおかげで、現場や部下との距離がうんと近づく。見えてくる。そういう感覚が、良い大人、良いリーダーには必要ではないかと思う。

 

大人になったら。リーダーになったら。政治家になったら。首相になったら。確固たる大人とは何かを、みんなが考える。意見がブレてはいけない。アイデンティティーは、ひとつでなくてはいけない。凝り固まった「大人像」「リーダー像」を全うしようとする。それが、そもそも、家族としての、組織としての不幸せを招いている気がする。

 

良き大人とは、何歳にでもなれる。

良きリーダーとは、どんな役職にもなれる。

大人になるとは、「私という1人」になることではなく、「いくつもの私」を束ねられるヒトになる体験をしていくことではないだろうか。

世襲議員の正論が聞くに堪えないのは、その御仁は、生まれた時から政治家だからである。官僚たちの言葉が虚しいのは、官僚のみを目指したエリートだからである。残念ながら現在の安部首相に「いくつもの私」は、期待できない。

暴れん坊将軍も、大岡越前も、水戸光圀も・・・
下々の世界に降りたときは、生き生きとしている。
あるべき正しい姿を追いかけていない。
下々との体験を常に新鮮なものとして描いている。
ドラマの世界と言えども・・・
日本人が「上の方に期待する典型的な姿」は、そこにある。

「大人の正論」は、「自分は、まだ正しい大人ではない」ということを共有してからでないと、その発言の浸透力を持たない。

家族も、組織も、国家も・・・そのリーダーが、「自分は一番正しい」という一元的な幻想を捨てること。みんなが「私は、多元的であるがゆえに、揺れてしまうこともある」ことを共にすることから、幸せへの中身ある議論は、はじまるのではないかと思う。