団塊のおっさんや50歳も過ぎたワタシたちは、東大の講堂を埋め尽くしても、最後は、その共同体に取り込まれていくことが約束されていたから、大きな声で反抗できたわけである。絶望だと言ったって、世の中は、光の方に向かっていた。
何故、いまの若い人たちは、ストレートな反抗をしないのか?
そんなことをぼやいているワタシたち大人に「絶望」しているからである。
盗んだバイクで走り出したら・・・
もう終わり!!!になってしまうのがわかっているからである。
昔は、社会への甘えが存在した。
ワタシたちの時代には、
盗んだバイクで走り出しても・・・
その頃の社会は、なんか許してくれたわけである。
シンナーを吸ったって、
暴走族になったって、
いつかはマトモになって帰ってくるからと庇ってくれる大人たちがいた。
自由になれた気がした15の夜は・・・自分たちではどうしようもない大きな社会があってこその夜なわけである。55の夜に聞く、尾崎豊の「15の夜」は、社会への甘えでしかない。
甘えてもいい大きな社会はなくなった。
近い社会と関わりを持つために活動する若者たちが増えた。
自らがコミュニティを創り出すために動き出している。
「弱さを認めたからできるコミュニティ社会」がそこいらじゅうに現れてきた。
近頃の若者は、尾崎を熱唱するおっさん達より、なんぼも立派ではないかと気がついてしまった。辛いけど・・・。
下記は、尾崎豊のBIRTH TOUR Freeze Moon~ラストの語りよりの抜粋である。
いつまでも夢を捨てないで、いつまでも悲しい暮らしに、こうつぶやいていても・・・いったい何だったんだ。こんな暮らし。こんなリズム。いったい何だったんだ。きっと、何もかもが違う。何もかもが違う・・・。
夜の街で風が吹くたび、俺たちはたばこをふかす。そして最後の1本を吸い終えると、 帰る金にさえ足りなくなっちまう。いったい何ができる。
なあ、みんな夢はあるかい?
夢を追い続けていくことができるかい?
決して、決して自分に負けたりしないかい?
あぁぁぁぁぁ、もう辛い。
読むだけで、もうイタイ。
叶うわけのない夢を追い続けろというより、目の前の手に入る幸せを実感しようとする若者たちの方が、いくらも正直である気がしている。